訃報


2010年6月24日
闘病中だった道源博保さんが亡くなりました。
ご冥福をお祈り申し上げます。

道源博保さんのご冥福を心からお祈り申し上げ、神津島の沖に白いバラを手向けました。2010年7月11日

2009年1月26日 9:03:40
お世話になっていた東洋丸の大船頭、峻さんが昨日、亡くなりました。
暮れにうかがったときはその前日に倒れて入院したため、お目にかかることができませんでした。
その少し前にいただいた利根川の立派なウナギ、その話しも十分に聞かれないまま逝ってしまいました。
お世話になった船頭が相次いで亡くなり、とても寂しい気持ちです。
ご冥福をお祈り申し上げます。

2009年1月11日 8:34:36
その昔、タハラッチが釣りの手ほどきを受け、その後大物釣りや深海釣りにのめりこむ大きなきっかけを作ってくださった宝栄丸の寶男さんが亡くなりました。
今も釣りを続けていられるのはこの方のおかげ、恩人です。
謹んでご冥福をお祈り申し上げます。


この連休の2日間は、久しぶりの下田でしたが、釣りはせず。
陸の上で大勢の方々とお会いし、中にはとても懐かしい方もいらして、昔話に花が咲きました。
タイの話、ムツの話、キンメやアコウの話からベニアコウにまで拡がっていきました。
そしてアラやアカムツ、クロマグロまで、下田の沖にいる旨い魚へと発展。
釣り師や漁師はやはり魚の話で盛り上がります。
でも思い出すのははじめて宝栄丸を訪れたときのことです。

下田ではでかいタイが釣れるというので、30年以上も前の春先のある日、仕事を終えたタハラッチは単身、須崎へと走りました。
まだそのころの伊豆は遠隔地。
東伊豆有料道路が健在で、伊東から下田まで、4ヶ所もの料金所があったのです。
夜の帳が須崎の集落を包み込み、道には人っ子一人いません。
朧な灯りを頼りに急な階段を登っていくとそこが宝栄丸。
寶男さんが迎えてくれました。

ここのタイ釣りは上からタナを取ります。
今でこそカウンター付きのリールや道糸にマーカーがついていますが、当時はそんなものはありません。
まずは道糸にマークをつけるところからの手ほどき。
準備を整えると温泉に浸って床につきました。

翌朝、風が吹いていて出船できません。
朝食をいただいたあと、翌週、出直すことにして帰ることになりました。
タハラッチはその当時、普通の方々と同じように働いていたのです。
で、宿泊代を支払おうとすると、船が出られなかったのだから不要だというのです。
あたたかな応対に感激しながら須崎を後にしました。

翌週、再び前回と同じく風のため、出船不能。
そしてまた、宿泊代金を受け取ってくれません。
これには大感激です。
その後大ダイをたくさん釣らしていただき、それからは釣り仲間を誘って、須崎詣でが始まったのです。

寶男さんは神子元島周りのマダイのコマセ釣りを開拓した方。
釣り客の少ないころでしたが、海に出られるときは毎日、コマセを打ってタイを寄せていたのです。
いわば飼い付け漁。
この苦労が神子元島を大ダイ釣り場に育て上げ、その後の須崎の遊漁船拡大の礎につながったのは間違いありません。
もっともまだメジャーではなく、上記2回ともタハラッチのほかにお客はいませんでした。
その後も春先の平日などはほかのお客がなく、おかげでタハラッチはマンツーマンでタイ釣りを教えていただくことができました。
やがてターニイや信さん、そして伊東の壽々丸のご主人となっている敏男さんたちからも海のこと、魚のこと、仕掛けのことなどなど、さまざまな教えをいただくことができたのです。

当時の下田では春はマダイ、夏は銭洲、秋から冬はキンメやアコウ、クロムツというのが釣りのパターンでした。
今と違って銭洲の解禁は6月15日。
行けば必ず銭になると伝えられてきた銭洲はとても豊かで、いい釣りをたっぷり楽しませていただきました。

これが現在のタハラッチの原点。
いろいろな思い出をたくさん、ありがとうございました。
そんな思いが湧きあがる中でこの2日間、寶男さんとのお別れをしてまいりました。

2005(H17)年4月17日、忠兵衛丸で実施した例会に先立ち、白いバラを銭洲の海に投下して、
この1年間で去ってしまった方々を偲びました。
小柳津正規さん、副島敏彦さん、佐々木徳太郎さん、楽しかった想い出をありがとうございました。

銭洲での追悼式2005.4.17


悲しいお知らせがあります。
佐々木徳太郎さんが逝去されました。
ご冥福をお祈りします。
詳細は、後日、会報でお知らせします。

平成17年3月13日記

平成16年5月4日午前8時、副島敏彦さんが逝去されました。
享年51歳。直前まで小笠原の釣りを楽しんでいて、30s級を筆頭に3本のスジアラを仕留めたとのことでしたが、3日夕刻に突然不調を訴え、翌朝、診察に訪れた医師を出迎えた玄関先で倒れたとのことです。
その後2時間にわたって懸命な蘇生作業が施されたのですが回復せず、遂に帰らぬ人となってしまいました。

稀なほど正義感にあふれた人柄で、人の嫌う離島の歯科診療に心血を注ぎ、噴火で総員退避となった三宅島から小笠原母島へと赴任先をかえてがんばっていました。
残念でなりません。

副島敏彦さん 平成16年5月4日51歳で逝去


平成16年4月27日午後0時45分、小柳津正規さんが逝去されました。
享年74歳。1年ほど前からすっかり体力が衰えてしまい、釣りからも遠ざかっておりました。
小さな身体にもかかわらず、海外をはじめ、ユニークで豪快な釣りをおおらかに楽しんでいた豪傑でした。
ご冥福をお祈り申しあげます。


平成14年9月15日、祐正丸の澤入正芳さんが亡くなりました。
ご冥福をお祈り申しあげます。
在りし日の澤入さん


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